リョウタのひとり旅

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愛知旅行①~桶狭間古戦場跡や周辺の見どころ・アクセス・所要時間~【桶狭間の戦いゆかりの地巡り】

今回は桶狭間の戦いゆかりの地を巡ってきたので記事にします。

1560年に行われたまだ尾張一国のみの織田信長と当時「海道一の弓取り」と呼ばれ、天下に一番近いといわれていた駿河の今川義元との戦い。

信長は少数で大軍の今川軍を打ち破ったことをきっかけに全国にその名が知れ渡り、どんどん勢力を伸ばしていきます。

桶狭間古戦場周辺の基本情報

桶狭間の戦い(織田信長VS今川義元)

・戦いの年 1560年

・兵力 織田軍 2,000 VS今川軍 25,000
・織田軍 主な参戦武将 織田信長・佐久間信盛・森可成

・今川軍 主な参戦武将 今川義元・井伊直盛・瀬名氏俊・松平元康・岡部元信

1560年に上洛を目指す駿河の大大名今川義元(約25,000)と対して尾張統一を成し遂げたばかりの織田信長(約2,000)が迎え撃った戦。

今川軍は織田方の城を次々と攻略しながら進軍。今川義元が桶狭間で豪雨が降ったことにより休息をとっていたところを織田軍が奇襲。今川義元は討ち死に

この戦により今川家は衰退し、織田信長は勢力を伸ばしていくことになり、今川家家臣となっていた松平元康(徳川家康)が三河で独立するなど戦国時代の大きな転機となった戦。

アクセス・所要時間

アクセス

・名鉄本線有松駅より徒歩約22分
・名古屋市営バス「桶狭間古戦場公園」バス停より徒歩約2分

所要時間

・30~60分(周辺のスポットも巡ると2~3時間)

古戦場公園や観光案内所などメインどころのみの場合は30分、ゆっくり見て回ると60分ほど。

おけはざま山などの周辺も巡る場合は2時間ほど。自分はゆっくり見て回って3時間ほどかかりました。

桶狭間古戦場観光案内所

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スタッフが周辺の説明をしてくれたり、周辺のマップが貰えるので最初に立ち寄るのがおすすめ

また、御城印などオリジナルグッズも販売してます。

桶狭間古戦場公園

桶狭間の戦いの中心地であり、今川義元討ち死にの地とされています。

公園内には信長と義元の像が建てられています。

地元では田楽坪と呼ばれています。

義元公首洗いの泉

今川義元を討ち取った後、首検証の前その首をこの泉で洗い清めたと伝わっています。

駿公墓碣

桶狭間古戦場公園にある二つの石碑。

ねづ塚に埋められていたものを1953年に偶然発見されました。

左側には今川義元の名が刻まれた石碑が建っています。

ねずの木

今川義元が田楽坪の泉で水を飲む際に馬を繋いだ木と伝わっています

おけはざま山

今川義元が本陣を置いていた場所。

住宅地の中に案内板が建てられています。

本陣周辺には今川軍の兵士数百名しかおらず、織田軍による奇襲後、義元は田楽坪(古戦場公園の辺り)へ追い込まれることになります。

戦評の松

今川軍の重臣・瀬名氏俊が他の武将を集め、軍評定をした場所と伝えられている場所。

当時の木は災害や病気などで枯死しているが、当時の場所に再度木を植樹しています。

瀬名陣所跡

瀬名氏俊隊(約200人)が、今川義元の本陣の設営や周辺の監視を行うために陣を敷いた場所

戦後は、周辺の人々はこの辺りを「セナ藪」などと呼び瀬名氏俊を偲んでいました。

瀬名氏俊自身は、本陣設営後松平元康が守る大高城へ移動したため、実際の戦いには参加していませんでした。

長福寺

1538年創建。

桶狭間の戦いの後境内で首検証を行い、桶狭間発祥の地と呼ばれる場所も境内に存在している。

桶狭間の戦い後、織田軍に捕らえられた林阿弥が首検証の後義元や討ち死にした家臣団を弔うために阿弥陀如来を持参。この阿弥陀如来がご本尊として祀られており、義元と家臣の松井宗信の木造も安置されています。

首検証跡

戦いの後、義元に仕えた茶坊主・林阿弥を捕らえて今川方の武将の首検証をした場所

この場所には供養杉と呼ばれた大木がありましたが、1959年の台風による被害がありその後別の供養杉が植え直されています。

桶狭間発祥の地

14世紀中盤頃、南朝の落ち武者が隠れ住んだといわれ、泉に浮かぶ桶が廻る様子を見て桶廻間(おけはざま)という地名になったと伝わり、その伝説が生まれたといわれる泉はいくつか存在しますが、長福寺の泉はそのひとつ

弁天池

この池では殺生が禁じられており、「血刀濯ぎの池」とも呼ばれ桶狭間の戦いで血が付いた刀を濯いだ池とされています。

桶狭間神明社

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1340年代に南朝の落武者によって開拓されたと伝えられ、瀬名氏俊が武運を祈願するために訪れたとされる神社。

境内には本殿、能舞台があります。

尾張藩4代藩主徳川吉通お手植えの杉

尾張藩4代藩主・徳川吉通が植えたとされる杉も残っています。

釜ケ谷

信長が今川軍への奇襲の機を窺った場所

織田軍は雷雨が止むまでこの付近に潜み止んだと同時におけはざま山の今川軍本陣に奇襲を仕掛けました。

信長坂

信長が今川軍への奇襲の際に駆け上がったとされる坂

現在は大学の敷地内となっており、一般の人は立ち入りが禁止されています。

七ツ塚

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織田軍が釜ケ谷で勝鬨をあげた後、信長がこの辺りの住人に命じ、戦死者を埋葬するために作らせた塚。

七つの穴を等間隔で掘り、戦死者を埋葬塚を破壊した人にはたたりがあるとされ、現在まで2つの塚が残っていましたが、区画整理のためひとつを石碑や案内板をたて残しました。

松井宗信陣地跡

今川家の重臣で遠江・二俣城主を務め三河・尾張方面の遠征軍の指揮を担当。桶狭間の戦いの際には、鳴海城方面の織田軍の監視を担当

本陣が織田軍に奇襲された際にはわずかな手勢で本陣に駆け付け抗戦、松井宗信以下松井隊の兵のほとんどが討ち死に

井伊直盛陣地跡

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井伊直盛隊(約1,000人)が陣を敷いた場所

桶狭間の戦いの際には織田軍に取り巻かれたことから巻山と名付けられ伝わり、井伊直盛は戦死

井伊直盛は井伊直虎の父であり、直盛が戦死したことから「女城主」として井伊家の跡を継ぐことになります。

 

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